人的資本レポートを活用したステークホルダーエンゲージメント
東京海上ホールディングス株式会社の事例
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コーポレート
ガバナンス Corporate
Governance - 指名・人財 Nomination/HR
- 報酬 Compensation
- サステナビリティ Sustainability
HRガバナンス・リーダーズ株式会社
シニアマネージャー
岡村 佑太
■ サマリー
現在、人的資本開示に関して、有価証券報告書や統合報告書に加え、人的資本レポートへの注目が集まっている。人的資本レポートは、投資家、労働市場、従業員等のステークホルダーに対して、人・組織を通じた経営戦略の実現可能性、企業の価値創造のストーリーを自由度高く伝えることが可能である
人的資本経営を推進するうえで重要となる事項は、創業からのパーパスや企業文化を基盤とした企業の競争優位の源泉・強みの更なる強化と、企業価値の向上・経営戦略実現に向けた人財戦略として未来に向かうストーリーの構築である。さらに、経営層を巻き込んだモニタリング、役員報酬KPIとの連動、各ステークホルダーとの対話を通じた人的資本の経営とガバナンスの高度化が重要となる
今回事例として取り上げる「東京海上ホールディングス株式会社」では、2023年と2024年に2回レポートを発行しており、1回目のレポート発表後にステークホルダーとの対話を行い、2回目のレポートへと更なるアップグレードを行っている
本事例では、人的資本経営を過去から現在・未来へと繋がるストーリーとして示すとともに、経営陣の間で組織・人材に関する継続的な議論を実施している点が挙げられている。さらに、人的資本レポートを投資家や従業員・採用候補者等のステークホルダーとの対話に積極的に活用し、人的資本経営そのものの高度化を図っており、人的資本経営におけるガバナンスの好事例であるといえる
開示を行うことの効果の1つとして、ステークホルダーとの信頼関係を構築するとともに、適切なフィードバックを受けることで、更なる経営の改善に繋げ、中長期的な企業価値の向上へと繋がる点が挙げられる。人的資本も単なる開示にとどまらず、企業価値向上のため、社会への貢献のために、継続的な改善に繋げるよう経営として覚悟を持ってコミットし、活動を推進していくことが重要である
目次
1.人的資本レポートを通じた
ステークホルダーとの対話
1-1 人的資本レポートへの注目
人的資本開示を行う媒体として、有価証券報告書に加えて統合報告書、人的資本レポートに注目が集まっている。実際に、直近2年間で国内企業約20社が人的資本レポートを発行(当社調べ)している。昨年実施した我々のアンケート調査でも、昨今人的資本レポートを発行したい・関心があるという企業は33.4%であり、その関心の高さがうかがえる。人的資本レポートの読者として想定しているステークホルダーは、投資家、従業員、採用候補者等様々であるが、人的資本レポートを通じて自社の人・組織に対する考えについて、独自の物語性、ストーリーとしてステークホルダーに周知したいという想いは共通である。
図表1
人的資本開示に関する今後の取り組み予定

1-2 ステークホルダーにとっての人的資本
まずは重要なステークホルダーである投資家について取り上げたい。投資家の関心は、「継続的に企業価値向上を実現」できる企業への投資であり、投資判断材料として事業の成長性やそれを支える人・組織、さらには経営としてのマネジメントシステムによって、企業価値向上が期待できるかどうかを重視している。つまり、投資家に対しては、人的資本が「継続的に企業価値向上を実現」できることの期待に応えられるストーリーとして伝えていことが重要となる。
そのためには、経営戦略の実現可能性について過去から現在・未来に向かう時間軸を踏まえてその期待値を示すことが重要である。創業からのパーパスや企業文化を基盤とした企業の競争優位の源泉・強みをベースに、経営戦略実現に向けた人財戦略・人的投資を通じた未来へと繋がる価値あるストーリーとしてその解像度を高めることが求められる。さらに、役員報酬KPIとして人的資本に関する指標を取り入れることによる経営陣の本気度を示すことでそのストーリーの実現可能性への期待値が高まっていく。
次に従業員にとって人的資本は、会社側(経営陣)の思いを従業員が理解することによって会社の行う人事施策の意味合いについて納得感を持って取り組むことができる。さらに、より多くの活躍・成長の機会と適切な環境によって、社員一人ひとりが成長を実感し、より豊かで健康的な働き方の実現に向けた理解の促進に役立つ。それにより会社に対する更なるエンゲージメントの向上が期待できる。
採用候補者にとっては、入社しようとしている企業がいかに「人」に投資をしているか、人を大事に想っているかを把握できることで入社判断の大きな材料の1つとなる。
以上を効果的、かつストーリー性を持って伝えるために人的資本レポートを活用することの意義は大きいといえる。
図表2
人的資本レポートの発行意義(社内外ステークホルダーへの訴求効果)

2.人的資本レポート事例
「東京海上ホールディングス株式会社」
2-1 取組みの概要
今回、事例として「東京海上ホールディングス株式会社」を取り上げる。同社はグローバルで保険ビジネスを、従業員は約44,000名、47の国・地域で展開している。同社では、「Human Capital Report」として、2023年、2024年と2年連続で人的資本レポートを発行した。
Human Capital Report 2023:
https://www.tokiomarinehd.com/ir/download/l6guv3000000h3b7-att/2023_Human_Capital_Report_j(202309).pdf
Human Capital Report 2024:
https://www.tokiomarinehd.com/ir/download/uh7ekg0000001y9b-att/Human_Capital_Report_2024_j.pdf
損害保険業界においてリーディングカンパニーである同社が人的資本レポートを発行した理由、また、そのレポートの主な特徴について記載する。さらに、投資家、従業員、採用候補者といった様々なステークホルダーからどのような反響があったのかもお伝えしたい。
2-2 人的資本レポート発行の理由
2023年6月に1回目となる人的資本レポートを発行。同社のパーパスは「お客様や社会の“いざ”をお支えし、お守りすること」であり、“People’s Business”である保険事業は「人」が創り上げる「信用・信頼」がすべてである。この「人」に対して、同社がどう考え、何に取組んできているのかを様々なステークホルダーに対して十分に伝えていくことが人的資本レポートの発行の目的である。
人的資本レポート発行に際しては、経営陣の間で数多くの議論がなされてきた。当時日本ではほとんど人的資本レポートの開示事例がなかった中で、同社の人的資本による提供価値とは何か、これまでどのようなことに取り組んできたのか、今後どのような価値を提供していきたいのかについて検討を進めた。その検討過程において、社外取締役を含めた経営陣で人的資本に関する議論を積み重ねてきた。
議論を重ねる中で、経営陣として人的資本の重要性について改めて明確化され、ステークホルダーとの信頼関係を深め、社会における価値創造のために、従業員1人ひとりのポテンシャルの最大化を目指すことがコミットされた。その結果として人的資本レポートの発行に至ったのである。
2-3 人的資本ストーリーとガバナンスの高度化
1回目のレポート(全88頁)では、同社としての人的資本経営に対する基本姿勢、経営陣による人的資本経営に対する考え、具体的な人的資本経営を支える仕組みを中心とした内容について明示した。
グループCEO、CHRO、CDIOのメッセージの掲載や、CFO・CHRO・CDIOの3者鼎談にて、それぞれの立場から同社の人的資本経営を語るなど、経営陣から見た人的資本の重要性を示している。また、人的資本経営を通じて各ステークホルダーに提供する価値にも言及し、お客様、社会、株主・投資家、代理店、社員、未来世代に対してどのような価値を提供していくべきかが示された。
「グループ一体経営」を推進している同社にとって、人的資本経営は「グループ一体経営を支える“人材”」と「グループ一体経営を支える“企業文化”」を人事戦略として位置づけ、人的資本経営の柱として提示。この“人材”と“企業文化”の相乗効果を通じて、持続可能な成長とイノベーションへと繋げていくことが同社の組織競争力の優位性であると伝えている。
さらに、ガバナンス体制とCHROの役割について言及し、CHROのみならず、人的資本経営推進において経営陣が担う役割にまで踏み込んで記載を行った。ガバナンスの高度化として、役員報酬KPIに社員のエンゲージメント、組織風土の醸成を加えることで経営としてのコミットメントを高めることを明示している。
2-4 ステークホルダーとのエンゲージメント
2023年の人的資本レポートの発行後、社内外から多くの評価の声やフィードバックがあった。投資家からは、人的資本の考えはよく理解できたという高い評価があった。その上で更なる要望として、人的資本への投資による財務インパクトとの繋がりを示してほしいとのリクエストが寄せられた。また、国内外のグループ会社からは、ホールディングスとしての考えはとてもよく理解できたという声と共に、ぜひ自分たちの取組みも記載してほしいといった多くの声があがった。このような前向きなフィードバックがあったことは好意的に受け止めるとともに、同社グループとしての一体感の醸成にも繋がっている。
これらのフィードバックを参考にして、社内で今後の中期的な開示方針を策定するとともに、次年度は人的資本レポートのアップグレードとして、よりステークホルダーの期待に応えていくことを大きな方針として掲げた。国内のみならず海外を含むグローバルベースでレポート内に掲載、財務指標を取り入れたKPIの設定、各人事施策に対する実際の社員の声を掲載する方針として取り組んだのである。
図表3
CFO・CHRO・CDIOが語る同社の人的資本経営

2-5 2回目のレポートの発行
2024年6月に2回目のレポート(全70頁)を発行。各ステークホルダーからのフィードバックを受け、主に全社財務KPIとの繋がりの明示、「グループ一体経営」実現に向けて、国内外グループ会社の取組み・事例について言及を行うようアップグレードを行った。
具体的には、経営戦略との連動性を測る指標として「一人あたり創出価値」という労働生産性指標を掲げるとともに、それを達成するための改善KPI(グループ一体経営を支える“人材”と“企業文化”に紐づく指標)を設定。さらに、同社グループのフィロソフィーである「創業から変わらぬ精神」を記載し、現代に受け継がれるパーパスストーリーとして、人的資本経営が創業から現在に至るまで一貫した考えに基づき取り組んでいることを強調し伝えるようにした。これは“社員一人ひとりを「大事に」「育てる」”という同社グループが大切にする人材育成の哲学とも紐づいている。
また、次世代経営リーダーの育成機関である「Tokio Marine Group Leadership Institute」を通じ、グループワイドで「人」がともに高めあう組織文化を創り出している点を記載することで、“人材”と“企業文化”づくりを重視した経営であることを強調した。加えて、グループ各社の取組みとして、パーパス浸透、DE&I推進について具体的な取組み事例を記載するとともに、グループで活躍している社員の声を取り上げた。
以上のように同社では、1回目を発表後に各ステークホルダーからの意見・期待を踏まえて2回目の人的資本レポートの発行へと繋げている。人的資本レポートをステークホルダーとの対話のきっかけとし、人的資本そのものについて同社の考えを整理するとともに、新たなる人的施策を講じる等、グループとしての人的資本の強化へと繋がっている。
今回2回目のレポート発行を行ったことで、ステークホルダー目線に立つとKPIの進捗状況や各種人事施策の取組み内容も気になるところであり、より多くの意見が集まってくることが想定される。それらの意見を踏まえて、今後同社では更なる人的資本経営の強化に繋げていくものと思われる。
図表4
グループのフィロソフィーである創業からの変わらぬ精神

図表5
経営戦略との連動性を測る指標として「一人あたり創出価値」を設定

図表6
人的資本経営推進における主要KPI

3.最後に
3-1 まとめと今後に向けて
人的資本レポートを作成する企業は増えているものの、一過性の取組みとして終えてしまう企業は多いものと思われる。当然レポート作成にあたって多くのコストがかかり、それに見合うだけの成果に繋がるのかと疑問に思う企業も多いだろう。
今回取り上げた「東京海上ホールディングス株式会社」の事例では、一度レポートを作成して終わりではなく、ステークホルダーとの対話に活用するとともに、継続性をもってレポートを作成し、レポートのアップグレードをしている点が大きなポイントである。このような一貫した取組みが、人的資本経営をより良いものへと進化させている。そのベースとなるのは人的資本経営に対する経営陣の高いコミットメントであり、形だけに終わらない本気で取り組む経営姿勢がマーケットからの高い評価へと繋がっているものと思われる。ぜひ読者の皆様には直接そのレポートをご一読いただきたい。
今後、人的資本レポートの開示を検討している企業は、その活用目的を明確にするとともに、どのステークホルダーをターゲットとした内容とすべきか検討することが重要である。人的資本開示が始まって2年が経過し、人的資本開示の意義について悩まれている企業も多いものと思われる。開示をすることでステークホルダーからのフィードバックを受け、更なる改善に繋げていくことが本来の意義である。そのために何を開示すべきか、どのような情報が求められているのかは今一度検討する必要があるかと思われる。
Opinion Leaderオピニオン・リーダー
HRガバナンス・リーダーズ株式会社
シニアマネージャー
岡村 佑太 Yuta Okamura
外資系コンサルティング会社、政府系投資ファンド、ベンチャーコンサルティング会社等を経て現職。
指名・人財ガバナンス領域にて、執行役員改革、人的資本経営推進を中心にプロジェクトに従事。
